日常写真を大切に想っている理由
私がお仕事でフォトグラファーになる前は専業主婦を10年してきて、
大学生の時から写真を撮ってきたので、
主婦している時もちょこちょこと撮ることはしてきていたのだけど
子どもが誕生日でケーキがある時や、
お風呂上がりのすっぽんぽんの何も飾らない姿の記録のようなもの、とかがメインで
日常の様子は1か月に1~2シーン撮ってる程度でした。
何気ない日常を残しておくといい、という想いは当時は全くなくて
突然に起こるイベントに
(例えばパパのところに歯磨きを始めて間もない時に、歯ブラシを持って行って「やって」とせがんでいるように見えた時にかわいい!って思って)
あ!チャンスかもって思って撮っていたりしたのが残ってる感じでした。
やはり、笑顔の写真を残したかったし、それを撮るものだと思っていたけど、
ある時に娘とご飯を食べていた時、
決してきれいに食べることはしていなくて、
素手でおかずを掴んだのがだんだん崩れてきてぐちゃぐちゃになってきていたり、
口の周りもほっぺも、口に入りきらなかったご飯粒たちがあちこちに付いた状態で
床にもこぼれて、、、
でも精一杯に食べていたので
その時にカメラを構えたくなってファインダーを覗いてみたら、
そのまま、ありのままをそっと受け止め、
見守ることができている自分と
何ならもっと汚しながら食べてもいいよと思っている自分もいて
子どものことも、自分のことも許容している自分がいることで心が楽に感じているし、
育児の楽しさみたいのも感じた自分がいたことがあって
その時に(前にもブログで書いているのだけど)私が変われたなと思う出来事でした。
子育ては「~すべき」の型が決まっているものではなくて、
こうしたらいいよ、だし、
子どもの個性によっても対応が異なるもの。
なのにそれが分からなくて、これでいいのかな?って
子どもとのマンツーマンの中で煮詰まってて、
子育てに自信がなくて、
ちゃんと育てられてるの?ってよく思っていました。
(ここで育児のヒント!モンテッソーリを教えてもらってからは子どもには発達段階があるということ、その段階にふさわしい関わり方があるというものです。それからはだいぶ関わり方が分かったので心の負担が減りました。ざっくり言い過ぎ?)
そうして、コロナが来た時に 子育てに自信がない私ががっつり一日中を子どもと過ごさないといけなくて、
外に出ることもはばかられる状況で、
学校(長女は当時4年生、次女2年生)は休みのため課題は出るけど教えるのは親、ということでやることは増えるし
子どもも親もストレスしかなく、私は鬱になったのでした。
そんな時に、夫が撮ってくれた私と長女が1歳くらいの時の二人が向き合ってごろんと寝転がって笑ってる写真を見たり、
ご飯をぐちゃぐちゃにしながらもぷくぷくのお手々で一生懸命に食べている写真を見た時に
心の中でピンと張りつめているものが解けたり、
見守れた自分の緩んだ心を思い出すことができて
はあ、娘かわいー
ああ、自分て一生懸命やってるやん
こんな自分でいいんだわ
と認められて、励まされて、 子どもに向かう心が整うのを感じたりすることがありました。
子どもがかわいいのに、かわいいと思えなくなる時って
ちょっとSOSかなって思うので、
ワンオペしていたり、
旦那さんお帰りが遅かったり、
自信なく子育てしていたり、
自分に余裕が持てなかったり、
子どもを責めてしまった自分を責めるとか思うように時間を過ごせなかったりしていると
起こりやすくなるので
そんなママに 大丈夫!ちゃんとできているよ!
子どもにちゃんと笑えているよ!
愛を注げているよ!って
励まし、力を与えれられたらなって思うのです。
写真館やスタジオで撮ると笑顔で綺麗な写真だけど、
同じようなことが繰り返されてる日常の現場にこそ
想いも詰まっていて、
情も深まっていて、
積み上げられている絆の時間だから
気持ちがぎゅ~っと詰まっていると思うのです。
おもちゃが片付いていなくても
洗濯物が山のようになっていても
お皿が洗っていなくても
それよりも優先させた子どもの存在があったわけで
子どもへの愛があった証拠だと思うのです。
だから、日常の中には真の愛が写るから 大切にしたいなと思うのです。
見えにくいからこそ、私という第3者の視点で、
3人の子育てをしてきたからこそ見える愛の姿を
私が、撮りたいと思うママの代わりになって残すことで
気付き、励まし、力を送ることになって元気になれたらいいなと思っています。
日常の中に ママを元気にするタネがい~~~~~~っぱい入っているので
大切だよっていうお話でした。
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